"1934年、不況を克服したアメリカ市民はベニー・グッドマンのスウィングジャズにダンス、ダンス、ダンスで狂喜乱舞。「これこそがアメリカの音楽だ!」と叫んだ。
が、その20年前に雑草魂を持ったタフな男がいた。「これこそがベースボールだ!」と叫んでも充分に納得できる。スウィングジャズの20年前にアメリカ全土を熱狂させた男、その名は "" ベーブ・ルース "" 。
今回はお金にまつわる話をしよう。1914年、ルース19歳。日本は大正3年。マイナーリーグのボルチモア・オリオールズにピッチャーで入団。年俸は600ドル。当時のアメリカの大衆車は500ドル。普通の4人家族の1年間の生活費は約600ドル。現在の日本円だと約360万円。月30万円の給料と思えば、ハタチ前の若造には妥当かな。オリオールズは有望な若手を育て、高値でメジャーリーグに送り出す仕組みだ。
1918年ルース23歳。 日本は大正7年、森永ミルクチョコレートが発売された年。
4月の開幕から3ヶ月で14勝を挙げたルースは、シーズン途中の7月にメジャー昇格。ボストン・レッドソックスに移籍。年俸7,000ドルで二刀流が条件。ルース、即OK。マイナー時代の約10倍だ。まずは車を購入。赤いボディーのフォードT型、1,200ドル。すでに買い方がスターだ。このシーズン、ピッチャーで13勝。バッターではホームラン11本。そしてルースの活躍でワールドシリーズ制覇、しかも本拠地で。ボストンの街は熱狂の渦。
1919年、ルース24歳。日本は大正8年、カルピスが発売された年。球団側は年俸10,000ドルでバッター集中が条件。これには事情がある。当時のメジャーリーグの試合はパワー不足。ヒットや盗塁でコツコツ得点を重ねるゲーム。ホームランを打つバッターも少なく、多くて10本の地味なスポーツ。でもルースは毎打席フルスイング。三振でも観客は盛り上がる。一振りでゲームをひっくり返す特大ホームランはアメリカ全土が熱狂したんだ。球団側というよりMLBコミッショナーからの要望でもあった。
1919年のオフ、ベースボール を迫力あるスポーツに変えたルースは、それに観あった年棒を提示した。レッドソックスのオーナー "" ハリー・フレイジー "" は払えないといい出した。演劇制作会社も経営していたハリー。ブロードウェイのミュージカルに投資したが赤字。本拠地球場フェンウェイパークのローンの返済もあり財政難に。そこで、前からルースを欲しがっていた弱小球団 "" ニューヨーク・ヤンキース "" に当時では破格の125,000ドルでルースを売却した。ローンの残り300,000ドルの負債も肩代わり。おまけに主力選手たちも金銭トレード。掛かった費用は現在の日本円で約9億円。1918年の優勝メンバーほぼ全員ヤンキース入り、レッドソックスは以後84年間、ワールドシリーズで勝つことは無かった。
1920年、ルース25歳、大正9年、国民がメジャーリーグに不信感を高めた年。前年のワールドシリーズ ” レッズ VS ホワイトソックス "" でマフィアが選手にワイロを渡し、とばく絡みの八百長試合が発覚。ホワイトソックスの主力選手8名が刑事告訴された。世にいう "" ブラックソックス事件 "" 。国民の気持ちがベースボールから離れつつあったが、ルースは開幕から豪快なホームランを連発。初夏には不信感が払拭され、さらにベースボール人気は高まった。外野手で4番、レギュラー定着。「毎試合、ルースを観れるぞ!」と国民は喜んだ。ルース、ホームラン54本でタイトル獲得。2位の選手が19本だから54って異常な数値。圧倒的な先輩にヤンキースのオーナーは「いい買い物した!」とこちらも喜んだ。
1921年、ルース26歳、大正10年、打率.378、ホームラン59本で史上初のリーグ制覇。ヤンキースタジアムの年間観客動員数がメジャー初の100万人突破。オーナー、役員たちは「ルース様様」だとウハウハ状態。ヤンキースの前身はボルチモア・オリオールズだから、恩返しだよね。シーズンオフ、だいぶ潤ったヤンキースに年俸52,000ドルを要求した先輩、少し調子に乗ってますね〜。渋々のんだヤンキース。現在の日本円で約1億5千万円。
1922年、ルース27歳、大正11年、都会暮らしでお金持ち、とくれば "" 酒・女・ギャンブル "" こうなる。離婚もしたし、ひとり暮らしだしね。この頃のニューヨークはシチリア系マフィアとナポリ系ギャングの垣根が取り払われ勢力を拡大していた。酒場、博打場、ホテルなどを多角経営でしのいでいた。ルースは酒場である男と出会う。その店の〆料理は「ブッタネスカ(平打ち麺のトマト味パスタ)!」ルースは毎晩、大盛りを3皿たいらげるほど大好物。オーナーはシカゴから来たナポリ系ギャング "" アル・カポネ "" 。ヤバいことになってきたね〜。こっからは描けないや...。ただ、ここで、自称フランスの女優と出会う。こちらの方が生涯の伴侶となる。
自堕落な生活で太りはじめ、体重が118kgに。体にキレがなくなり全く打てない。ファンからのブーイングもストレスになり、ロッカールームでホットドッグ12個、コカコーラ10本たいらげ、体重が132kgに。今シーズンはホームラン35本と、成績が年棒と合わなかった。日本ではブルドックソースと不二家ショートケーキが発売。
1923年、ルース28歳、大正12年、スランプはまだ続く...が "" ベーブ・ルース効果 "" でヤンキースタジアムを建てた。伝統が息づく荘厳な佇まいは、まさにベースボールの聖地。今年(2024年)はアメリカンリーグの試合を観戦する日本人が多いと思うけど、レフト側に店舗がある "" ローベル精肉店 "" JFKが愛した創業180年の肉屋。そこのステーキサンドイッチは手頃な値段で楽しめ美味いです。是非!
ヤンキースは景気も良く、未来が開けてきたけど、日本では、台風が近づき、雨は無いが風の強い9月1日、AM11:58、M7.9の強い地震が関東地方を襲った、関東大震災!昼時の台所から出火、風にあおられ木造家屋が次々と焼けていった!死者・行方不明者は推定10万5千人。明治以降の地震被害としては最大規模。言葉が出ません…。
1926年、ルース31歳、大正15年、先輩が肉体改造、パーソナル・トレーナーをつけ、ウェイト、ランニング、ボクシング も取り入れ、1日の食事量を5分の1に減らし、大好きなホットドッグを断ちました。40日間で10kgのダイエットに成功(笑)でぶキャラがダイエットって、なんだかカワイイ。しかしアメリカのスポーツ科学は "" 素晴らしい "" の一言です。今シーズン、ホームラン47本、打点146、打率.372でホームラン王と打点王の2冠を獲得、ヤンキースは3年ぶりのリーグ制覇。
1927年、ルース32歳、昭和元年、絶好調のルースは前人未到のホームラン60本。年棒は80,000ドル。現在の日本円で約2億8千万円。これはすごい金額で、当時のフーヴァー大統領の年収が70,000ドルで約2億4千万円、メジャーリーガーが大統領を越えたのだ、夢がある話ですね〜。現役メジャーリーガーの年俸もメジャーリーガーになりたい子供も増えていった。
1934年、ルース39歳、昭和9年、読売新聞社主催の日米野球開催。復興に是非メジャーリーグも協力してほしいとルースを描いたポスターまで作っちゃって、来日を楽しみにしていたが、ルースは渋っていたんだ。船移動に不安があった。途方にくれる読売のコーディネーターの鈴木...42丁目タイムズスクエアの裏通りをトボトボ歩いていると、1軒のバーバーショップが。何げにのぞくと散髪するベーブ・ルースを発見!行くしかない。「ルースさん、日本国民が待ってます、来日をOKして下さい!」と土下座。床屋のおっちゃんはあぜん。ルースは渋る。鈴木は「これ、見せて良いのかなぁ〜?勝手に作ったポスターだしなぁ〜、最後の手段だ、いっちゃえー!」ポスターを開くと、ルースが大爆笑!「分かったよ、行くよ。」と約束してくれた。鈴木、手柄をたてたねー、読売社長賞もんだよ。
11月、横浜港に着いたメジャーリーグ選抜チーム。震災を乗り越え、立派に建て替えられた "" ホテル・ニューグランド "" に宿泊。ルース、部屋へ入ると水道水を「日本の水、めちゃくちゃ美味い!」とガブ飲み。マネージャーが止めた。ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスなど著名なメジャーリーガー16名からなるチームが来日。日米野球がきっかけで、2年後に日本プロ野球が誕生します。
1935年、ルース40歳、昭和10年、ヤンキース経営陣ともめてボストン・ブレーブスに移籍。4月、5月で打率は1割台、ホームラン1本。6月に引退。"