この年のオーナー会議でドジャース以外の15球団から「ジャッキーがメジャーでプレイすることに反対」との声が。だが数日後にMLBコミッショナーは「対戦拒否ならば、そのチームを出場停止処分に処す」と強硬な姿勢を貫いた。「よっしゃーっ!」がぜんヤル気がでたジャッキーは他球団投手の球種、くせ、キャッチャーの攻め方を徹底的に研究しはじめた。そうそう忘れてましたが、ジャッキーは " UCLA " 出身!かのカリフォルニア大学ロサンゼルス校ですよ。新入生と編入生をあわせた出願者数は毎年15万人、合格率9%、ジャッキーは賢いのよ。そして私服はもちろんIVY、色々調べると自宅の内装や家具もオシャレ、おまけに奥さんは超オシャレ!じゃないと採らないよね、ドジャースも。細かいところまで調査して、監督、コーチを集めて会議して、彼ならやってくれるでしょう、と全員一致での指名だから。極上のプレイヤーを選ぶには頭脳やセンス、ルーツも条件に入っている。のちに分かるけどドジャースは素晴らしい球団です。
1947年4月15日、本拠地デビュー。球場には26,000人の観客が集まり、そのうちの14,000人がジャッキーのプレイを応援に来た黒人。そりゃもー、ドンガドンガのお祭りですよ!ただ白人からの野次はこの後も続いたのは事実。5月13日、野次をこらえるジャッキーに対してリスペクトしはじめたのは、そばでずっと無視してきたチームメイトだった。走塁は天下一品。塁に出たらホームに帰ってくる確率は8割5分。100m走かハードルだったらオリンピックに出れたね。実際、お兄さんが陸上競技で出場してる。守備も一級品で捕球して投げるまでのスピードはハンパないからね、こんな人、今までの人生で見たことがないんだから相手チームもチームメイトも。そりゃリスペクトするよ。全員がジャッキーの肩をポンポンと2度ほど叩き「気にするな!」と。泣きながら謝ってる選手もいた。守備につく時はショートを守るピー・ウィ・リース選手がうつむくジャッキーの肩に腕をまわし守備位置に着くまで黙って観客席を見まわし「野次るなら野次れ!ジャッキーは我々にとって大切な選手なんだ!」と心で叫びながら毎試合続けたんだ。徐々に野次が減っていったのも事実で、それにはキャプテンのリースが最初から一役買っていた。
幼い頃から間近で人種差別を見てきたキャプテンは、入団した初日にチームメイトの前でジャッキーと握手。その後もずっと礼儀正しく振る舞う、たったひとりの人物。
他の選手からは無視が続き観客からは野次られるが、キャプテンの行動で少しづつ人種の壁に風穴が開き始めたんだ。
ジャッキーは感謝の気持ちをこう語る「正直、何度か心が折れそうになった。しかしリースは何度も僕を助けてくれたよ。しかもこのことを自分の手柄にしようとはしなかった、ドジャースにきて本当に良かった」この年のジャッキーは打率.297、打点48、ホームラン12本、盗塁がリーグトップの29の好成績を残し、同年に制定された新人王に輝いた。
ジャキーが引退する1956年まで鉄壁の二遊間コンビを続け、毎年90以上のダブルプレーをとり、守備面からドジャースはどんどん強くなっていった。リーグ優勝6回、55年はワールドシリーズ制覇、常勝チームとなった。" チームメイト " ってネーミングはジャッキーとキャプテンの二遊間コンビが発祥なんだ。
1948年、先輩の活躍でメジャーリーグに黒人選手が増え始めた。
ラリー・ドビー外野手(インディアンズ)
ダン・バンクヘッド投手(ドジャース)
ロイ・キャンパネラ捕手(ドジャース)
サッチェル・ペイジ投手(インディアンズ)
ドン・ニューカム投手(ドジャース)
この年のワールドシリーズはインディアンズが制覇。全米の話題は戦後復員して最高成績のジョー・ディマジオ(ヤンキース)が打率.320、打点155、ホームラン39本で打点王、ホームラン王。テッド・ウィリアムズ(レッドソックス)が打率.369、打点127、ホームラン25本で首位打者に輝く。そしてベーブ・ルースが同年8月16日に死去(53歳没)
メジャーリーグの人種の壁を壊したのはジャッキー・ロビンソンだけど周りの人達にも恵まれていたよね。
ブランチ・リッキー(ドジャースオーナー)
MLBコミッショナー
ピー・ウィ・リース(ドジャース遊撃手)
そして監督の言葉が印象的なんだ。
「選手の肌の色が黄色だろうと黒だろうと関係ない。優秀な選手ならば使う。もし反対と言うならばチームを去れ」
泣ける。
ロビンソンのメジャーデビュー50年目にあたる1997年4月15日、ロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番となった。
社会が変わっていくとき
強い者の方から歩み寄る
歩み寄れる人は強いのだ
ジャッキー・ロビンソン
逆風に立つライオン