(この対談はvol.2からの続きです)
土臭いアプローチでホンマタカシ氏のアシスタントに
竹内:当時ホンマさんはよく使うスタジオからアシスタントをとるっていう慣例があったので、突然飛び込んで行ったのは俺だけじゃないですかね。「どこの馬の骨か分からんけ嫌じゃ」って言われて、でも「ここしか考えてないです」って言ったら、「じゃあバイト決めてこい」って言われて。すぐ首にするかもしれないし、バイトだったら忙しい時だけちょっと呼べるし、どこの馬の骨か分からんけどちょっと手伝いでやってみてもいいよっていうところまで折れたんですよ。すぐにバイトを決めて連絡したら、一回来てって呼ばれて、その時に掃除をしまくったんです。棚の整理とか車を洗ったりとか。そんなことを続けていたら、ちょうど先輩の木寺さんがが卒業することになって、タイミングも良かった。
西川:何もかもするよね、ホンマさんのアシスタントって。車の運転からチワワの散歩まで。
竹内:そんな時代だったんすよね。柔術やってる時は弁当作ってましたからね。ササミ茹でてブロッコリー茹でて(笑)。
西川:すごいなー。ほんと、昔の芸人さんとか落語家さんの弟子みたいな感じだったよね。
竹内:朝行って段取り組んで、柔術で絞められて、弁当作って柔術の道場に送って、俺は撮影の準備して現場で用意して待ってる。いつもホンマさんまだですかね?って言われて、ようやく現場に現れると2枚くらいだけ撮って帰るんですよ。なんか狐につままれているような感じ。まわりの人にも大丈夫ですかね?って言われるんですけど、俺は大丈夫ですっていうしかない。俺が何か決めたところで、「なんでお前が決めるんじゃ」って怒られて。
西川:本当にやる気があるのかないのか分からない撮り方だもんね。
竹内:あんな人いないですからね、つかみどころがなさすぎて。やることをやっていれば何も言われないし、特に会話もなかったけど、緊張感は常にありました。
映画人生のスタートは地元の小さな映画館
竹内:西川さんはどうして映画の世界に?
西川:野球、スポーツも好きだったけど、やっぱり子供の頃から映画が好きだったんだよね。小学校3年生の時に兄と二人だけで『ゴーストバスターズ』を観に行ったな。今はシネコンがメインになっていますけけど、90年代くらいまでは小さな映画館が結構市街地にあったんだよね。福屋(デパート)の裏にスカラ座、流川町にリッツとか。
竹内:今はもうなくなっちゃいましたよね。
西川:小学校の高学年くらいからは一人で映画館に行き始めて、映画はずっと観ていましたね。だけど周りに映画の仕事している人なんていないし、東京でやっているような映画もほとんど観られない。情報がない分「もっともっと」って渇望感が増していったんじゃないかな。
入れ替え制もない小汚い劇場では酔っ払いが1日中時間をつぶしていて、隣におじさんがいる席には座らないようにしなきゃってちょっとハラハラしながら映画を観ていた時間っていうのが、自分にとっては特別なものだった。今これだけ配信が普及して、家でいつでも好きな時間に観られるし、途中でトイレも行けるしお酒も取りにいけるんだけど、それでも劇場にこだわってしまうのは、あの頃の小さな劇場での体験がつながっているんじゃないかなと思います。
竹内:そうなんすね。
西川:地元から離れた学校に行けば、もっと映画の話ができる友達がいるんじゃないかとか、広島から離れて東京に行けばもっと面白い話ができる人がいるんじゃないかって思って外へ外へと向かいましたが、映画の世界で働くなんてことは、全然現実味がなかった。・
竹内:そういう仕事があると知ってはいたけど、俺も本当に自分がカメラマンになれるとは思っていなかった。
西川:監督になるっていう発想なんて皆無でしたね。映画が好きなのと同時に、文章を書くのは得意だと思っていたんです。スポーツもうまくできないし、そんなに成績もよくないけど、書くことは苦にならないし適当に書いても人に褒められるっていう感覚があったので、たぶん何かしらの文章を書く仕事に就くんだろうなと思ってた。それで文学部に行って、そこから文章の道にいくか、ずっと好きな映画の道にいくか結構悩んだんだけど…体力があるうちに難しそうな方をやってみるか。と思って、入り口を色々探していたの。映画界ってほんと入り口の分からない世界で、それは今もそうだし問題だと思っているんだけど。
行き場がわからないからテレビの世界やCMの業界を就職活動で回っていたときに、当時『幻の光』というデビュー作を撮ったばかりの是枝さんに面接の場で出会って、映画をやってみたいと話したら、フリーランスでよければってことで、途中で就職活動もやめて、現場のアシスタントになったんだよね。